夢現録

美少女ゲームの感想・考察等

美少女ゲームの”エロ"の価値

このツイートにそこそこの反応があった。そしてこれとは無関係に、「エロゲーにエロは要るのか?」という話題に言及した呟きを多く見かけた。

その議論(?)についてはともかく、いい機会なので、エロゲーについて考えていたことを実験的に文章化してみようかと思った次第。

 

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 美少女ゲームにおける"エロ”とはそもそも何だろうか?

 もちろんゲームの物語に登場する女の子たちとするエッチなことなのだが、メタレベルでは主人公=ヒロインの関係性を現実に引き寄せ、画面の前に提示するギミックである。

 エロゲでも何でも、虚構の世界というのはとても脆いものだ。どうしても情報が一方通行になってしまうし、作品として完成させるときは尺の限界があるため、物語の舞台・人物ともに大きく絞らざるを得ない。広い広い世界のほんの一部を抽出して、そのなかで魅力を放たなければならない。美少女ゲームならば女の子がヒロインとなるために。

 この脆い情報世界の美少女たちを現実に引き寄せなければならない。(三次元の人間を二次元に取り込むのではなく、二次元を三次元へ送り込むのだ。)

 プレイヤーはヒロインと交わることによって彼女の「見えなかった一面」に現実味を持って触れることができる。愛を確かめたり、ヒロインの新しい面を発見する方法は色々あれど、肉体の関係というのは最も生々しいもので、強く現実的なものと結びつける力となるのだ。

 別に美少女ゲームのエロで興奮するかどうかや、"使う"かどうかはあまり関係ないのである。特に長編の作品ではエロシーンの目的はそれではない。えっちぃ絵としてだけでなく、主人公=ヒロインの関係性の1ページとして刻み込むことが重要なのだ。性というのは多くの文化で「隠されるべきもの」であり、それを見ることは恋人としての特権だ。最も分かりやすい形で「特別な関係」を表現できる。そしてエロゲ・プレイヤーの独占欲を満足させることができる。(こういった"常識"に反する欲望を虚構世界に映し出すような作品もあるけれど、こうした禁忌破りが価値を持つのは禁忌の存在に由来するだろう)

 

 このときの主人公の喜び、いや悦びを、プレイヤー自らの生々しいナニカによって追体験するか、彼らを見守るに留めておくか、はたまた行為の結実だけを確認して読み飛ばしてしまうか。これは当然ながら各人の自由である。画面の前の人間がどうあろうと二次元世界は淡々と進行する。心配することはない。

 

 ともあれ、こうして望みは叶えられたはずだ!