夢現録

美少女ゲームの感想・考察等

15周年記念!【彼女たちの流儀】を語りたい。

 

 

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2006年6月23日に130cmより発売された美少女ゲーム彼女たちの流儀

本日で15周年ということで、「彼女たち」にいま思っていることを徒然なるままに綴っていきたいと思います。

 

最初から最後まで重大なネタバレ有り

 これからプレイする予定の方の閲覧は自己責任で

 

 

 

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美少女ゲームの”エロ"の価値

このツイートにそこそこの反応があった。そしてこれとは無関係に、「エロゲーにエロは要るのか?」という話題に言及した呟きを多く見かけた。

その議論(?)についてはともかく、いい機会なので、エロゲーについて考えていたことを実験的に文章化してみようかと思った次第。

 

***

 

 美少女ゲームにおける"エロ”とはそもそも何だろうか?

 もちろんゲームの物語に登場する女の子たちとするエッチなことなのだが、メタレベルでは主人公=ヒロインの関係性を現実に引き寄せ、画面の前に提示するギミックである。

 エロゲでも何でも、虚構の世界というのはとても脆いものだ。どうしても情報が一方通行になってしまうし、作品として完成させるときは尺の限界があるため、物語の舞台・人物ともに大きく絞らざるを得ない。広い広い世界のほんの一部を抽出して、そのなかで魅力を放たなければならない。美少女ゲームならば女の子がヒロインとなるために。

 この脆い情報世界の美少女たちを現実に引き寄せなければならない。(三次元の人間を二次元に取り込むのではなく、二次元を三次元へ送り込むのだ。)

 プレイヤーはヒロインと交わることによって彼女の「見えなかった一面」に現実味を持って触れることができる。愛を確かめたり、ヒロインの新しい面を発見する方法は色々あれど、肉体の関係というのは最も生々しいもので、強く現実的なものと結びつける力となるのだ。

 別に美少女ゲームのエロで興奮するかどうかや、"使う"かどうかはあまり関係ないのである。特に長編の作品ではエロシーンの目的はそれではない。えっちぃ絵としてだけでなく、主人公=ヒロインの関係性の1ページとして刻み込むことが重要なのだ。性というのは多くの文化で「隠されるべきもの」であり、それを見ることは恋人としての特権だ。最も分かりやすい形で「特別な関係」を表現できる。そしてエロゲ・プレイヤーの独占欲を満足させることができる。(こういった"常識"に反する欲望を虚構世界に映し出すような作品もあるけれど、こうした禁忌破りが価値を持つのは禁忌の存在に由来するだろう)

 

 このときの主人公の喜び、いや悦びを、プレイヤー自らの生々しいナニカによって追体験するか、彼らを見守るに留めておくか、はたまた行為の結実だけを確認して読み飛ばしてしまうか。これは当然ながら各人の自由である。画面の前の人間がどうあろうと二次元世界は淡々と進行する。心配することはない。

 

 ともあれ、こうして望みは叶えられたはずだ!

 

 

夢幻廻廊 ~「お屋敷」とは一体何なのか?~

※本作の続編である、「夢幻廻廊1.5 〜連鎖〜」及び夢幻廻廊2 〜螺旋〜」はやってません。ですのでそれぞれの登場人物の細かい考察などはありません。

 

 

※考察途中につき、少しづつ追記しております。

 

 

 

お屋敷を構成する要素

 

「いっぷ」

whip、鞭、躾。

一般的には「社会的な条件付け」といったところ。「おしごと」を頑張ったから褒めてあげる、言うことをきかなかったら容赦なく罰を与える。

ただここでのいっぷの目的は別のところにある。すなわち、主人と奴隷、いや家畜という関係をひたすらに再確認する儀式。なんでも、「言葉が通じない」のだから、鞭をもって繋がり続けようとする。

 

「役割」

神様として君臨する環。お嬢様4名。メイドかとる。

住人の誰もが孤独になるよう設計されている。

お嬢様の人数やメイドの性質(片方が有能で片方はドジ)なども環曰く必然らしい。どこまで考えての設定なのかは不明だが……

 

 

 

お屋敷の設定について考えたこと

①屋敷の住人たちは「外」へしばしば出かけ、そこには大勢の人々がいる。しかし、そこは外見でこそ普通の街だが「本当の外」ではなく、お屋敷の影響下にある。「本当の外」はたろが言うところの灰色の世界。我々も住んでいる世界。

②「お屋敷」なるものはつまるところ虚構。タイトル通り、夢で幻の廻廊。

 

①これはまぁ分かりますね。毎日学園に通っているはずなのに、なぜか脱出は森の奥の裏門から。すなわちお嬢様たちの学園やメイドの買い物先からは脱出不可能ということ。四つん這いの「たろ」とか「犬」とかが散歩してても騒ぎにならないのはそのため。街の人々全員がお屋敷システムによって支配されているというよりは、単に彼らのことが見えないんだと思います。

 

②最終盤の環とたろの会話が一応の根拠です。

そういえば、こんな場面もありました。

とあるルートでお屋敷脱出後、たろは記憶を頼りにお屋敷近くまで行くがそこは空き地。しかし、たろがお屋敷に戻る決意を固めると、なぜか毎回4姉妹が近くの公園で仲良くお茶会してる。お屋敷の門をくぐる描写は一切なく、記憶リセットで家畜生活リスタート

たろの望みによって出現する世界、お屋敷。怪しげな言い方をすれば、「周波数が合う」ことによって彼の目下に姿を現します。要するに虚構なんです。

 

 

しかし、お屋敷と現実世界の繋がりを示唆する部分もあります。

たろが庭の奥を掃除しようと歩いていくと、なんと風景に見えたものは書き割りで、強めに押したら壁ドッカーン。その後の記憶なし

この壁の先は「本当の外」だったのか?

もしそうなら、お屋敷が少なくとも物理的には存在していることになります。先程あげた場面は、たろの認識だけがお屋敷に支配されているということで説明しましょう。ループについても同様です。

そもそも、「お屋敷の外」と「本当の外」に本質的な差はなく、たろがかとるであるかないかによって認識が決定されると考えた方が自然かもしれませんね。

このことについて、自分は明確な結論を出せないです。

 

 

 

ループの必然性

「夢幻廻廊」に限らず、「時間が巻き戻る、ループする」という設定は多くの物語において採用されている。これは何のためか? 間違った過去を正すためか? あるいは、楽しい時間を何度でも繰り返すためか?

 

一見すると、たろが他の住人の誰かとお屋敷を脱出するという間違いを正すためにも見える。

しかし、環によるとこれらの逸脱行動もまたゲームの一部なのだという。ゲームの駒にすぎない住人たちによるシステムへの反抗を、ゲーム進行の必要条件として規定するという不条理。つまりは脱走は必然であり、調教の一部なのだと。

メタ的には、様々な状況の物語を作り出すための構造ともいえそう。同じ点から始まり同じ点へ戻ってくる線がたくさん折り重なって球になるように、何度も戻ることによってのみ完成する世界。

いずれにせよ、完全なかとるとなり、「天国」にまで至ったたろの楽しい楽しいかとる生活はもはやこれ以上語る必要もない。彼らの楽園は続く……永遠に……

 

 

 

 

 

【おまけ】

このゲームのOP「トキのかたりべ」。すごく好きな曲なのですが、なぜか歌詞がどこにも見つからなかったので、自分で何度か聴いて歌詞書き出しました。

判断が難しい箇所もあったので、必ずしも正しいとは限りませんが参考までに。

www.youtube.com

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