夢現録

美少女ゲームの感想・考察等

「好き」ってどういうこと?

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 「好き」とはまず第一に肯定である。そしてそれが他者に対するものである場合、その感情は「憧れ」と呼ばれる感情に近い。相手の容姿、言葉、仕草、好きなもの、これまで過ごしてきた人生、そしてそれらから導かれる相手の性格や感性。こうした要素の中に自分にはないものを見出し、それを肯定することこそが憧れである。

 異性への恋愛感情はその典型例だ。人が抱く「好き」にはさまざまな形があるが、恋愛が物語や話題の中心に据えられやすいのは、異性という存在が身体的・精神的・社会的に大きく異なる絶対的な他者であるからだろう。相手に対する理解の試みと埋めがたい違いに対する戸惑いの狭間で生じる強い関心が、恋愛という感情をより際立たせる。

 

 

 しかし、人物に対する「好き」は、単なる憧れに留まらない。多くの場合、それは相手に近づきたいという欲求と結びついている。相手の強さや美しさに惹かれながらも、同時にその人のことをもっと知り、自分と共通する部分を探し求める。友人や恋人と会話を交わし、同じ場所で時間を過ごしたいと願うのは、そうした欲求の現れだ。共通の話題や経験を持つことで、互いに分かり合えているという実感を得ることができるからである。

 この感情は単なる共鳴では終わらない。憧れは、やがて自分のなかに相手の要素を取り込みたい、あるいは相手にも自分の色を染み込ませたいという欲求へと変化する。相手に惹かれるほど、同じ能力や感性を持ちたい、同じ世界を見ていたいと願う気持ちは強まり、そこには支配の要素が含まれる。この感情の対象が身体に向かうのが性欲である。触れ合い、身体を重ね、性行為をすることは、互いの体温や匂い、感触といった五感を通じて相手の存在を強く実感し、自らの存在を刻み込もうとする試みであり、ある種の身体的支配とも言える。

 極端に言えば、「好き」とは、相手を支配し、また支配されることによって、身体的・精神的な同一化を目指す欲求である。本来は自分にはない要素に惹かれたはずなのに、最終的には自分と同じになることを求めてしまう。この矛盾こそが、「好き」という感情の本質なのだ。

 

 

 この構造は、物語に対する読者の姿勢にも通じる。物語の登場人物にすら、人は理想の展開を求める。期待を裏切る結末には不満を抱くこともあるが、かといってすべてが想定内であれば、そもそも物語を読む意味はない。読者は、自らの想像を超えるものを求めながらも、最終的には自分の感性で「良い」と思える物語を求めてしまう。これは、誰かを好きになるとき、相手の異質な部分に惹かれながらも、次第に共通点を求めてしまう心の動きと同じである。

 

 

 少々話が逸れたが、現実において、自分が関わる相手に対して「ただ見届けるだけ」という姿勢を貫くことがいかに難しいかは想像に難くない。誰かを想うことは、「関わりたい」「影響を与えたい」という欲求と表裏一体である。憧れとしての「好き」と支配欲求は切り離せない。完全に相手を尊重し、何の期待も抱かずにただ好きでいることは、理論上は可能かもしれないが、実際にはほとんどの人間にとって不可能に近い。「好き」という感情を抱く以上、関わらずにはいられず、そして関わろうとする欲求を抑えれば、いずれ「好き」という気持ちそのものが消えてしまう。だからこそ、人を好きになることは、美しく、時に苦しさを伴うものなのだ。

15周年記念!【彼女たちの流儀】を語りたい。

 

 

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2006年6月23日に130cmより発売された美少女ゲーム彼女たちの流儀

本日で15周年ということで、「彼女たち」にいま思っていることを徒然なるままに綴っていきたいと思います。

 

最初から最後まで重大なネタバレ有り

 これからプレイする予定の方の閲覧は自己責任で

 

 

 

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美少女ゲームの”エロ"の価値

このツイートにそこそこの反応があった。そしてこれとは無関係に、「エロゲーにエロは要るのか?」という話題に言及した呟きを多く見かけた。

その議論(?)についてはともかく、いい機会なので、エロゲーについて考えていたことを実験的に文章化してみようかと思った次第。

 

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 美少女ゲームにおける"エロ”とはそもそも何だろうか?

 もちろんゲームの物語に登場する女の子たちとするエッチなことなのだが、メタレベルでは主人公=ヒロインの関係性を現実に引き寄せ、画面の前に提示するギミックである。

 エロゲでも何でも、虚構の世界というのはとても脆いものだ。どうしても情報が一方通行になってしまうし、作品として完成させるときは尺の限界があるため、物語の舞台・人物ともに大きく絞らざるを得ない。広い広い世界のほんの一部を抽出して、そのなかで魅力を放たなければならない。美少女ゲームならば女の子がヒロインとなるために。

 この脆い情報世界の美少女たちを現実に引き寄せなければならない。(三次元の人間を二次元に取り込むのではなく、二次元を三次元へ送り込むのだ。)

 プレイヤーはヒロインと交わることによって彼女の「見えなかった一面」に現実味を持って触れることができる。愛を確かめたり、ヒロインの新しい面を発見する方法は色々あれど、肉体の関係というのは最も生々しいもので、強く現実的なものと結びつける力となるのだ。

 別に美少女ゲームのエロで興奮するかどうかや、"使う"かどうかはあまり関係ないのである。特に長編の作品ではエロシーンの目的はそれではない。えっちぃ絵としてだけでなく、主人公=ヒロインの関係性の1ページとして刻み込むことが重要なのだ。性というのは多くの文化で「隠されるべきもの」であり、それを見ることは恋人としての特権だ。最も分かりやすい形で「特別な関係」を表現できる。そしてエロゲ・プレイヤーの独占欲を満足させることができる。(こういった"常識"に反する欲望を虚構世界に映し出すような作品もあるけれど、こうした禁忌破りが価値を持つのは禁忌の存在に由来するだろう)

 

 このときの主人公の喜び、いや悦びを、プレイヤー自らの生々しいナニカによって追体験するか、彼らを見守るに留めておくか、はたまた行為の結実だけを確認して読み飛ばしてしまうか。これは当然ながら各人の自由である。画面の前の人間がどうあろうと二次元世界は淡々と進行する。心配することはない。

 

 ともあれ、こうして望みは叶えられたはずだ!